4月25日 4都府県緊急事態宣言(3回目)

 

Part 12 ~月影

 

ふたつの出会い

昨年4月の第一回緊急事態宣言から1年、新たな変異ウィルスの拡大で危機感が高まっています。昨春は、突然の日常の遮断から不安や圧迫感を感じ、変わらず訪れた桜や新緑の季節に癒されると同時に、変わってしまった日常を悲しく思いました。今は、身に付いた新日常の中でそのような感情の揺れはありませんが、日中の強い陽射しに輝く花々や緑は眩しすぎ、静かな夜の時間に安らぎを感じます。春の宵、月のやわらかな光と影には、見えているものと見えないものの間にある幻想の世界が広がります。

 12ヶ月にわたり、一連のリサイタル活動と次回公演について様々な思索を試みてきました。その過程で出会った物事、気付き、ふとした瞬間に通り過ぎる心象などは、今までにない貴重な経験となりました。そしてその中から、「出会い」の素晴らしさを伝えるふたつの新たな構想が湧き上がって来ました。ここで、それらの出会いについて書き止めたいと思います。

うつろい

 これまで行ってきたコラボレーションでは、異なる形式を持つ表現を一回性の時空間の中で交差させ、感覚の越境によって互いの限界を広げるという、新たな表現を展開してきました。それは、抽象性の高いところから出発して具体性の裾野へ向かう、緊張感のある出会い方であったように思います。

 この一年、図らずも訪れた日常の変化は、時間に対する新たな感覚をもたらしました。たとえば、曲を習得、またはある機会に演奏する場合、これまでは、その目標に向かってひたすら練習を重ねていきました。自分の中で、技術的、芸術的に到達目標を掲げ、繰り返しながら形作っていくのです。当然、どんなに稽古を積んでも、その日の‘出来’は一定ではありませんが、最終的な一回の演奏にすべての時間は集約されます。

 ところがこのコロナ禍で、いつもの練習の仕方ではなく、ひとつの曲をひとりで何度も‘弾く’ことだけに専念して、ある一定の時間過ごしてみたところ、思わぬ発見がありました。同じことの繰り返しのつもりでも、一回一回の微妙なゆらぎ、呼吸や情緒が感応するポイントの変化、主観・客観の入れ替わりなど、様々な印象が自分の中を通り過ぎてゆくのを感じました。そして、これまで概観的にしか捉えていなかったその曲から、豊かな表情が表れ一体感を覚えました。このような体験から、コラボレーションによる「出会い」には同様に、重なる印象の中から生まれるもっと柔らかな形もあるのではないかと思い、それを新たな表現として再現してみたいと考えるようになりました。直線的で瞬間的な出会いではなく、時間の流れの中で、たゆたう波間に見え隠れする光のように、音、ことば、線、かたち、色が、互いに結び、離れ、折り重なってひと時の景色となり、それぞれの心に浮かび上がることを目指します。C.モネ(1840~1926)はルーアン大聖堂を、同じ場所から異なる光の中で何度も描き、様々な印象の重なりからその姿を捉えようとしました。印象派といわれる作家たちは、日本の浮世絵に影響を受けました。東西文化の出会いから生まれたこの手法を、今回、音やパフォーマンスに拡げて再現したいと考えています。

いしずえ

 ふたつ目のコラボレーションは、バッハ演奏の再創造のための「出会い」です。バッハの作曲において、抽象性や象徴、抒情性や構築性などは、音楽そのものにそのすべてが尽くされています。ですから、そこへ何かを付け加えたり引き出したりする余地はなく、これまでそのまま演奏をしてきました。しかし、現在の危機的状況の中で私たちは、偉大な歴史的遺産に触れることによって、未来へのより強い希望を求めているのではないでしょうか。そこで私は、“バッハが自ら掲げた「神的秩序を再現する」という目的から、豊かな創造の可能性を導き出した”事実に注目し、バッハの胸を借りて新たな出会いに挑みたいと思います。その試みとは、オルガンと書が背景として持つ、西洋と東洋の思想の原点が出会うことで得られる視野の広がりです。

西洋思想は、物事を‘分ける’ことから始まりました。旧約聖書・創世記には、神が光と闇、昼と夜、大空と水を分けることから天地を創造され、そこから多様な命や営みが生まれていったことが書かれています。この‘分ける’という行為は知性です。そこには常に、分ける者が分けられたものを制するという二元論が存在しますが、この知性によって様々な知識、哲学、科学へと、世界は豊かに発展して来ました。

一方、東洋思想は、西洋のような分割の知性ではなく、物事が未だ分かれる以前の‘無’の状態に目を向けています。時間でも空間でもなく、意識もない渾沌の状態を論理的に表すことは困難です。「無心」という言葉がありますが、芸術やスポーツを究めている人が、技術やスピードなどに囚われず、行為そのものに集中したとき、周囲の音や視界が消え、時間の流れも変わり体が浮くような感覚になる、という話を聞きます。誰でも到達できるものではありませんが、東洋思想はこのような「無意識」を根幹にしているようです。

オルガンと書による第2の表現は、この東西の世界観の出会いです。そのイメージは、「ひとつひとつの感覚では捉えられない未分化の‘無’から、光の中に言葉と音が現われて意識が生まれ、それは変化を繰り返しながら展開し、やがて言葉や音は自由の空へ飛翔する」というものです。ここで言う「自由」とは、抑制からの解放ではなく、「空」(くう)になりきることで自ら湧き上がる美への憧憬です。

物事は私たちが認識することによってはじめて存在します。しかしそれは、見たり聴いたりするところから始まっているのではなく、渾沌の無意識にも広がっています。そこへ心を向ければ、経験はもっと生き生きとかけがえのないものに感じられるのではないかと思います。バッハの作品には、このようなアプローチも受け入れる大きな包容力があることを信じます。

出会いの予感

日本人は古くから、外来の文化と出会ったとき、それを受け止め、時間をかけて洗練させ独自の文化に定着させる気質と力を具えています。今は、明治以来の教育によって西洋型の思考が定着していますが、東洋的な思考や感覚もたしかに私たちの深層には受け継がれています。そして、主客を分ける西洋の考え方にも、また全身を‘空’に投じる東洋の在り方にも、広い意味で「魂の成長」という目的があります。どんなに科学や技術が進歩しても、文化の成熟と思考のバランスなくして人間社会の発展はないのではないでしょうか。ひとつの考え方では行き詰る道も、他の視点を持てば再び歩み始めることができるかもしれません。世界には多様な文化と思考の歴史があります。現在の危機を乗り越えるためには、そのような様々な‘知恵’の協働が必要なのではないかと思うのです。

闇と光が共存する美しい月夜は生命の神秘そのものであり、洋の東西を問わず人々はそこに詩や歌の題材を求めてきました。暮らしの中にも、月とともにある風習や民話・伝説があります。私も月の光と影から、意識と無意識の世界を想起しました。移ろう印象の重なりから生まれる情景、そして異なる視点から導き出される美の再発見――このふたつの「出会い」に期待を寄せて、新しい夜明けを静かに待ちたいと思います。

 

20214.29細川久恵

photo :細川久恵

 

〔参考〕 鈴木大拙著 「東洋的な見方」 春秋社 1975