Part 13 リサイタル2021を終えて

2021626日(土)、神奈川県民ホール小ホールにて開催のリサイタル第10音景―響き合うかたち―オルガンと書の幻境が終了しました。本公演は1年の延期期間を経て、また直前に3回目の緊急事態宣言は解除されましたが、未だ続くコロナ禍の中多くのお客様をお迎えし、初夏のひとときをオルガンと書の共演でお楽しみいただきました。開催までの長い道のりと今回の公演を振り返りたいと思います。

 リサイタル・シリーズでは、活動全体の目標――即ち、オルガン音楽の伝統と本質をコンサートホールで伝えること、更に新たな演奏の可能性を提案すること――を中心に据え、様々な角度から表現へのアプローチを試みてきました。その中で最も大切にしているのは、その動機が「体験」から出発しているかどうかを自らに問うことです。それは、学んだ知識や一般的な観念を基礎としつつも、それを固定化させず、‘生身で感じる’ことを通して得られる裏付けです。また思い付きや時代の流行などに左右されず、その時々に心に触れたことや疑問を掘り下げるという作業も「体験」の一部と言えます。そのような物事へのアプローチは個人的なものですが、演奏会でその主旨を聴き手に伝えるときには、客観性を加えることで、立ち会う人々のそれぞれの「経験」となって行くことを理想としています。演奏という行為を通して実現するこのコミュニケーションが、今回、少しずつではありますが、進化しつつあることを実感しました。

 

循環するテーマ

 今回のテーマは、2008年のリサイタル第5回で発表した「静寂と光」に通ずるものです。そこでは、見えるものと見えないもの、聴こえるものと聴こえないものを通して私たちが全身で触れている「世界」に感覚を解放することを目指しましたが、その表現の仕方は抽象的で象徴性に偏っていました。今回は、‘風景’という誰もが持っている漠然としたイメージと、中世と現代の時を繋ぐ‘想像力’によって、演者が表現する世界観に、個々の鑑賞者の感性が自由に関わることができたように思います。

 環境としての「静寂」の認識は、千年前と現代とでは全く異なります。現代の都会に暮らす私たちは常に夜でも昼間のように明るい人工の光の下、騒音や多くの情報に晒されています。遠くの山の中や無人島に行かない限り、真の静かさや闇には出会えないかも知れません。しかしながら私たちは、必ずしも‘無音’や‘暗闇’に「静寂」を感じるのではありません。それらはむしろ恐怖や孤独をもたらすこともあります。

私たちには知性と感性が備わっており、それらが捉えた物事によって「静寂」を感じ、日々の暮らしや文化は多様で豊かに彩られているのです。例えば、川のせせらぎ、海の潮騒、木々の葉を揺らす風、鳥の声、遠くで響く鐘の音、月夜や満点の星、窓から射しこむ光、等々。私たちはこれらに‘無音’や‘暗闇’以上に「静寂」を、そして同時に心の安らぎを感じ、様々な方法で表現しています。

中世には、この「静寂」を感じる環境が身近にあり、人々の感性に働きかけていたのでしょう。それによって自然を畏れ、自分を見つめる心が育まれていったのではないかと思われます。図らずも、コロナ禍によって当たり前の日常が遮断され、その代わりに私たちはひとり静かに過ごす時間を与えられました。すると、中世の静寂の中で生まれた音楽や詩が以前より心に響いて感じられ、それまでの概念や記憶に実体が与えられたように思いました。日常の変化は多くの気付きをもたらし、公演では考える以上にまた新たな体験をもたらすのではないかと期待が高まりました。

 

1部 寂光の丘

 ヨーロッパの中世の修道院が建ついくつかの丘を訪れた体験を基に、純粋で荘厳なその時代の精神と取り巻く環境を静けさの中に再現する試みをしました。石造りの聖堂の響きやろうそくの明かりの下で営まれる日々の祈りの歌、そして壁に描かれた荘厳なフレスコ画は、今でもその場に立つ人々に時を越えて静かに語りかけています。

 プログラム第4曲から第6曲。演奏者と書家は背中合わせにあって、同じ時間を過ごしました。演奏者は、書家が墨を磨る音、筆と紙が振れる音、息づかいを感じ、書家は、音楽が作り出す呼吸が、パイプを通る風の歌となって頭上を通り抜けて行きました。

 同じ空間にあって別々の表現が柔らかく交差し、流れる時を共有する静かな時間は、まさに丘の上に風が運んで来るいにしえの風景を、幾重にも重なる印象としてこの身に受けた体験そのもののように感じました。

【第1部】作品  「光・風・音

天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」

        (万葉集/人麻呂歌集より) 

 

2部 夢幻のかなた

 伝統的な西洋思想では、「光と闇」は対比的に捉えられ、生と死、罪と救いなどの象徴として表現されます。バッハの作品にもこのような様々な象徴を用いた作曲法が見られます。しかし今回、プログラム第7曲のバッハ作品において、この「闇」を「無」という東洋的な捉え方に置き換え、「光」と並列させるという新たな表現を試みました。

「無」は、希望の光を待つ苦しみの‘時’ではなく、また何かが始まる‘以前’ということでもなく、その予兆も何もない渾沌の状態のことです。そこに、まず‘意志’が表われ、光の中に‘ことば’と‘かたち’が、続いて‘音’が立ち上がり、そうして「存在」全体が立ち現れます。時とともに「存在」は過ぎ去り、再び「無」の中へ消えて行きます。舞台の暗転から書に光が当たり、その後音楽が始まり、終わると同時に暗転に戻る、という流れでそれを表現しました。そして残された文字は、書かれた過程を目撃したすべての人々に、音楽とともに生きた存在の記憶となります。

この光や音のない「無」の世界に意識を向けることで、全ての「存在」は限られた時間の中、光の下で意味を与えられ、生き生きと輝きます。そしてその印象は記憶となって永遠に心に残るのです。J.S.バッハの作品は、あらゆる思想や宇宙の秩序、真実に繋がる普遍性に対して開かれており、精神を成長へと導く力を持っていると考えます。

【第2部】作品 「曙」

 

新たな出発

 この二つの出会いは、ライヴでなければ成し得ませんでした。そして、演者同士はもとより、演者と鑑賞者は発する者と受ける者という一方通行の関係ではなく、同じ時空間を創り上げる担い手となりました。聴き方や見方を限定せず、各人の感性と自由な想像力に委ねることで、その場がそれぞれの体験として共有される音楽の新しい可能性が生まれたように思います。

 中世の修道院で、聖書や祈りのことばを‘乗せるもの’として始まった音楽は、いま、それぞれの人生や想いを乗せて誰かに届ける、また誰かからのメッセージを受け取るための‘乗り物’となって新たな命を与えられました。見えるものと見えないもの、聴こえるものと聴こえないものを繋ぐコミュニケーション・ツールとしての音楽は、風のように自由に広がり、その場に立ち会ったひとりひとりのまなざしに輝きをもたらしたように感じました。

ここからまた、文化の伝統と個人の経験を結ぶ心豊かな出会いの場を目指して、新しい一歩を踏み出したいと思います。

20217.19. 細川久恵