10月1日 GO TOトラベル・東京追加/ヨーロッパ感染第2波
♪Part 7 ~旅~
<未だ見ぬ空>
経済の再興を目指し、旅行を促すキャンペーンが全国で行われています。現代の私たちが旅をするように、昔の人々もさかんに旅をしました。若者は都会に憧れ、また休息や巡礼など様々な目的で出かけて行きました。そして芸術家たちも旅によって異文化に触れ、自らを高めました。旅は、実際に遠方へ足を運ぶ「旅」だけではなく、時代を越える「旅」、また人や優れた芸術との出会いによって未知の世界に触れる「旅」も含め、私たちの視野を広げ、多くのインスピレーションを与えてくれるものです。
♪Part6では、公演プログラムの中のゴシックの精神にまつわる作品を、絵画との対比を通して考えました。今回は様々な‘旅’を通して、ルネサンス・バロックをめぐる作品にアプローチしたいと考えます。
◆出会い
<トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV564> J.S.バッハ(1685~1750)
バッハは18歳でアルンシュタットの新教会のオルガニストに任命されました。そこでは教会合唱隊の生徒の指導も任されていましたが、彼の妥協を許さぬ性格と若さゆえの未熟さから、彼らとの間に軋轢が生じ不満を募らせていきました。20歳になったバッハは、自分をもっと高めてくれる刺激を求め、400キロ近い道のりをリューベックへ向けて旅立ちました。そこでは、D.ブクステフーデ(1637頃~1707)が聖マリア教会でオルガニストを務め、「夕べの音楽」と呼ばれる音楽会を開催していました。バッハはこの巨匠の音楽の素晴らしさに魅了され、4週間の予定の滞在は4か月にも及んだのでした。
その後、9年間にわたりヴァイマルの宮廷に仕えました。この間、オランダに留学していた公子がイタリアやフランスの音楽の楽譜を持ち帰り、バッハはそれらを研究する機会に恵まれました。こうしてバッハのオルガンは大きな進化を遂げたのです。オルガン曲の大半はこの時代に書かれ、それぞれの体験が作品に反映されています。
BWV564は3楽章から成り、ドイツのトッカータ、イタリア協奏曲の2楽章を思わせる弦楽ソロと通奏低音のスタイル、そしてリズミカルなフーガという構成になっています。
<エコー ファンタジア>
J.P.スウェーリンク (1562~1621)
バッハよりおよそ100年前、スウェーリンクはアムステルダムでオルガンの名手として名声を博していました。教会で定期的に開催していたオルガン演奏会は、国際的に高い評価を得、ヨーロッパ中から弟子たちが集まってきました。師であるスウェーリンク自身はネーデルランドを離れたことはありませんでしたが、その音楽にはイギリス、イタリア、スペインのルネサンス音楽の要素が見られます。しかし、ネーデルランドとドイツは、北方のゴシック教会堂や精神的基盤が共通の文化圏であり、すべての要素はドイツ的な響きに集約されていきました。広い空間と立体的なオルガンの構造や音色の発達は、「対話」や「エコー」といった表現に大きな効果を上げました。ドイツから来た弟子たちは、その後北ドイツオルガン楽派と呼ばれる山並みを発展させ、やがてバッハによってピークを迎えることとなるのです。
◆なぐさめ
ゲーテ(1749~1832)は、バッハ没年の前年にフランクフルトで生まれていますが、彼もまた1775年からヴァイマル宮廷に仕えました。奉職して10年、仕事に追われ人間関係にも疲れ心身ともに疲労困憊したゲーテは、癒しと再生を求めて、あこがれの地イタリアへの逃避行を決断しました。イタリアを縦断するこの旅は彼を復活させ、古典主義文学の創作を決定づける岐路となりました。明るい光と大自然、そこに根付いた多様な暮らし、旅途で出会った様々な人々との交流、そして古代の遺物やルネサンス芸術と、押し寄せる刺激に圧倒されながらも心を動かされ、彼の創作意欲は復活を果たしていったのでした。
37歳のゲーテは、1786年9月3日未明密かにドイツを発ち、インスブルックからブレンナー峠を越えてイタリアに入りました。同月28日夕刻、海の潟に浮かぶ水の都ヴェネツィアに到着。幼い日に父が持ち帰ったゴンドラの模型で遊んだ記憶は、今彼の目の前に現れたのでした。彼は、聖マルコ広場に程近い「イギリス女王館」と呼ばれるホテル・ヴィクトリアに宿をとりました。ここは、その15年前にモーツァルトが父と共に泊まったホテルです。赤い壁の館の窓からは、ゴンドラの船着き場と運河に架かった虹形の橋が見えました。旅はまだ始まったばかり。灯りに照らされた水面を見ながら、ゲーテは街をあてどなく歩きました。
~~~「これまで幾度か渇望した孤独を、私は今やしみじみと味わうことができる。なぜかというに、たれ一人知る人もない雑踏の中をかき分けて行くときほど、痛切に孤独を感じることはないのだから。」(イタリア紀行・ゲーテ著/相良守峯訳より)~~~
<主よ わが祈りを聞きたまえ>
G.ガブリエリ(1557~1612)
G.ガブリエリは、盛期ルネサンス・ヴェネツィア楽派の頂点と言われ、聖マルコ大聖堂のオルガニストを務め、彼の下にはアルプスの北から多くの弟子たちが集まってきました。この作品は、詩編による12の中世賛歌のモテットをオルガンに編曲したものの一曲です。
主よ、わたしの祈りを聞き
助けを求める叫びに耳を傾けてください。
わたしの涙に沈黙していないでください。
わたしは御もとに身を寄せる者
先祖と同じ宿り人。
あなたの目をわたしからそらせ
立ち直らせてください
私が去り、失われる前に。
《詩編39 13-14節》
◆変化
ゲーテは、1786年11月にローマに到着し翌年2月まで滞在しました。この間の経験は彼の人生を決定づけるきっかけとなりました。現代の私たちが初めてローマを訪れる時と同様に、ゲーテもまた様々な歴史・文化の巨大さに圧倒されました。
~~~「人は千の筆を使ってそれを叙述すべきで、一本のペンが何の役に立つであろう。実に観賞と驚嘆の連続で、夜になるとわれわれはすっかり疲れ切ってしまう。」(イタリア紀行より)~~~
彼は物事を知識や観念によるのではなく、ありのままに眺める眼を持ち、創り手とものに対し敬意をもって読み取ることが大切であると気づきました。さらに、小さいものに慣れている者が、これらの大きなものが後から後から押し寄せてくる状態を、辛抱強く受け止め続けることで、成長し幸福を感じると言っています。
~~~「いかに私たちがここで教化せられるかは、ローマを離れてはとうてい想像のつかないものである。われわれはいわば生まれかわってしまうのだ。」(同)~~~
そして、しっかりと物事を見ておくことによって、その活きた経験が後の思考や判断に結びつくという確信に至りました。彼はドイツ人としての人格や自らの価値観を再認識することができたのです。
<トッカータ 第3番>
G.ムファート(1653~1701)
ムファートは、フランス・サヴォワに生まれ、アルザス、ドイツ、オーストリア、などで活躍しました。サヴォワ地方は東側をアルプスに囲まれ、スイスやイタリアと国境を接しています。サヴォイア公国の宮廷が16世紀にトリノに移ったことで、イタリアとの深い関係がありました。また、当時のフランスはルイ14世の統治下、宮廷をヴェルサイユに移し華麗な宮廷文化が繰り広げられていました。彼はローマでパスクィーニに師事し、イタリアとフランスの様式をドイツに紹介した作曲家として知られています。この作品にも、イタリアのトッカータやカンツォーナ、掛留和音の続く間奏、フランス舞曲風のフーガなどの様式が織り込まれています。
◆旅人の足あと
ルネサンスの人文主義は様々に変化しながら古典派時代に、そしてその先へと受け継がれていきました。幾何学的構造や秩序と調和、またアリストテレスの「詩学」の研究から人間の感情に関心が高まり、これらは他の分野と同様に音楽にも取り入れられて行きました。芸術家たちは時代の中で様々な出会いを果たし、受け取った真実に生涯をかけて取り組み創造してきました。この過程があるからこそ、様式の変化や独創性が生まれ、作品は時代を越えて共感を得ることができるのではないでしょうか。
<サルヴェ・レジーナ>
C.M.ヴィドール(1844~1939)
ヴィドールは、フランス・ロマン派オルガン音楽の代表的作曲家で、オルガン交響曲の創始者と言われています。この作品は、オルガン交響曲第2番の第4楽章で、中世のマリア賛歌を主題に用いています。バッハ研究者でもあった彼は、この曲で古典的モチーフを図柄のように敷き詰め、間を柔らかな色彩を施した枠で繋いでゆきました。それはまるでアールデコのデザインのようであり、ここにも時代を越えた出会いの楽しさを見出します。
しばしば人生は‘旅’に譬えられます。今の「わたし」はこれまでに出会った「ひと、もの、こと」への経験で出来ています。明日歩む道がまた「わたし」を変化させて行くのだとすれば、私はつねに好奇心もって‘旅’に出かけたいと思うのです。
2020.11.5
細川久恵
人が旅をするのは、
到着するためではありません。
それは旅が楽しいからなのです。
(ゲーテ・名言集より)
Photo :細川久恵